けいぞくしたい

継続したい。

Google検索がひどい

 

 生まれてこの方というか、厳密に言えば自分では意識しようがないことにせよ生まれる前から続いているような数々のことのせいで、自分にはどうしようもなかったようなことのせいで、自分の感情が苦しめられているのは分かるものの、どこから書いていいのか当然分からなくて、今までも書こうとしては形にならなかったので、思いつくことから書きとめていきたいです。

 苦しいままなのが理不尽でしかないとは思うようになっているので。

 

 そんなことですが、ずっと頭の中を占め続けているたくさんのことを同じような体験をしている人はいないのか、とインターネットを検索します。

 よくします。当然のようですが、よくします。

 そしておそらく他のかたから見ればそんなの当然と言えば当然でしょうが、何も出てきません。それでもどこに理解を求め話しても絶対にそれはなくて、だからこそ検索せずにはいられない日々を続けてきました。他人から見ればただの徒労であろうとも。

 

 でもここのところで急激にGoogleの検索結果があまりにひどいことになっているのに、今更なのかもしれませんが改めて気づかされました。

 

 何が酷いかというと、自分の頭の中を占めている許せない物事のうちのひとつに過ぎないことを(とはいえ、ひとつひとつがあまりに巨大で押しつぶされそうになっているのでひとつだからといって、少なくとも自分にとってはけして小さいものではないですが)とりあえずひとつ例にとってみますが、「出産 惨め 病院の扱い 憎い」と検索すると、Google検索では、「惨め 憎い」に取り消し線が引かれて、宣伝に長けた病院の、出産への憧れ醸成などというタイトルの記事を結果に出して来ます。

 

 苦しみの感情に慣れることはなくいつまでも新鮮なままで抉られたような状態のまま心の中にある感覚でずっといますが、苦しむ生活にはそれなりに慣れないとここまで生きて来られませんでした。

 ですから、インターネットの検索結果に絶望させられることにも慣らされてもいるのですが、それでも「惨め 憎い」と検索している者に対して、憧れ醸成という病院の宣伝記事だとかそのほかにも病院での分娩のご案内などを出してくることには絶望と共に呆れと、そしてもしまだこの苦しみの感情に生活として慣れてはいない状態でこんな検索結果を見せられたらもっと衝動的な感情にされていただろうとも思わされました。

 数年前まではそれでも個人のブログなどを検索結果に出して来てはいた気がします。つまり数年どころではないくらいにはずっと検索をし続けているということですが。そしてそのどれもが出産や病院での体験自体は何も大きい問題にはしておられない内容で、今まで自分のような気持ちを抱えている文章には一切出会えたことがありません。(だからこそこれを今まで書けなかったし、それでもあまりにないので今書いている理由でもあります)

 それでも数年まえまでは、この語句を検索している者に対して、病院の宣伝や、これからのことを希望に満ち案内する病院のサイトしか出さないような状況ではなかったと記憶します。

 

 ついでに「惨めな出産」で検索すると
2020年令和二年現在のGoogle検索はページの下の方に
「惨めな出産に関連する検索キーワード
赤ちゃん産まれるの楽しみ
赤ちゃん 楽しみすぎる
赤ちゃん に 会える の が 楽しみ
子供が生まれた瞬間 父親
新生児 の 時に しか できない こと
出産 楽しみじゃない
子供が生まれた時の気持ち 父親
赤ちゃん 楽しみ 夫
出産 喜び」
と出して来ます。

 

「惨めな出産」で検索している者に対してです。辛うじて関連しているキーワードが「楽しみじゃない」くらいしか見つけられませんし、それも結果ではなくて事前の話しか予感させません。結果で傷ついて検索しているのであって、それはそれで残酷ではありますが機械検索でしかないので諦めるというか一旦置いたとしても、です。
他のキーワードの出し方が最早壮絶なほどです。言葉を失います。

 それでも上に書いた検索で、「惨め」と「憎い」に打ち消し線を付けて病院の宣伝を上位に出してくるよりはましなのかもしれません。

 いや、やはりどちらもあまりに酷いです。

 

 上に書いたようなことも実際体験したことですが、それらに全く限らず生まれる場所を選べなかっただけのことで受け続けて来た仕打ちだとかそれが今まで自分にどう続いてきたかも、すべて何も無かったことにされたくないです。

 そして整理もできたらいいですし書くことが自分にとって何かになったらいい、と思って書いています。

 

 とりあえず、Google検索がひどすぎる。近年とみに酷くなってきていることを改めて確認しました。という文章にしておきます。

 

カクヨムにも同じ文章を掲載している場合があります※

カクヨムでのページ

 

はてなブログはそれでいいのか

タイトルがやや大げさですが、
絶望と諦めと呆れが混じっているだけです。

 

はてなブログ
1年前のブログ「虐待親が死んだという話をメモ」などを振り返りませんか?
という過去の自分の記事を振り返ることを提案するメールを
自動送信してきてくださったからです。

↓この記事です
pakirapakira.hatenablog.jp

 


自動送信なので仕方のないことだとは理解しながらも
あんまりだよなとは思います。

 

タイトルは考えた方がいいのかもしれませんが
それはこちらで何とかすべきことなのか。

とりあえず、
はてなから送信されるメールの設定を
変更したことがなかったので
見直しておきました。

ふりかえりメールの送信が
デフォルトでチェックしてあるのは
どうかと思いますが、
でもそれがふつうかとも
諦念と絶望を入り混じらせています。
振り返らせていいことと悪いことがあるのでは
ないでしょうか。

今だからまさに考えていたので

何も私とて
文春の記事を取り上げたくはないのですが


最近しばしば思ったり思い返したりしていることがあって、
そこにこの記事ということは
世間もそうなのかなということを
書き留めておきたかったので。

 

bunshun.jp



https://bunshun.jp/articles/-/15170?page=3

―― 私が記憶に残ってるのは、『TVタックル』で「女の敵は女」というテーマで女同士を討論させようとした回です。はじまってすぐに先生が「こういうのはやりたくない」と言って、その構図を拒否したのを覚えています。

インタビュアーの人の言う回は
私にもとてもよく記憶に残っていました。ずっとです。
そんな場を無礼にも与えられた田嶋さんは、
「女性が自分の持っているものを
自分の意志として使うことを選択しているのに、
それを否定する気持ちなどまったくない」
というようなことを、
力を入れるでも大げさにでもなく
大変自然におっしゃっていたのを強く覚えています。

対決させられるために連れてこられた女性たちは、
あまりに番組スタッフにたきつけられ
戦闘態勢になっていたであろう最初の様子とは違い
とても静かになっていました。

そのあとで田嶋さんは
番組スタッフに対して明確に、
こういうテーマではできないし
こういったことは許せない
といったことをおっしゃり、
番組が続かなくなっていた印象でした。
ただそれを放送したところだけは番組のなけなしの誠意なのか
とも考えたりもしていました。
それとも単に他に放送するストックがないからだったのか
測りかねる部分がありますが。

 

https://bunshun.jp/articles/-/15170?page=5

自分の考えが間違ってなかったと思うのは、このインタビューもそうだけど、最近になって30代、40代の人に取り上げてもらうことが増えてきたことです。きっと、あのとき怒ってた変なおばさんの言うことが、正しかったのかもと思ってくれてるんでしょう。たくさんケンカして、批判されて、足蹴にされてきたけど、そうやって種をまくことはできたのかなって。

まんまとその通りでとてもとても何ていうかとても
あーもう全然まだまだだなって気持ちにさせられてしまっています。
すべてに賛同するとかしないとかでなく。

何か田嶋先生(さんと先生が混じっているのは一応自覚してます。
どちらをどう使うかを判断しかねてはいますが)
はきっと普通のことを穏やかに言っていただけなのだろうと
今は思います。
誰も自分の話を聞く耳を持たないうえに
本質と関係ない所で揚げ足をとるようなことばかり言われるので
その場では声を荒げたようになる場面もあって
それを切り取って編集演出として仕立て上げられていて
それでこそテレビで、
田嶋先生はもちろんそれも承知のうえで
それでも誰も言う場所がないので
届いてほしい人に届けたくて
リスクだけが一見大きく見えるので誰もが避ける場所に
分け入っていらしていたのかと今は思うわけです。
それにどうして何十年もかかるというのか。
人間の生涯はそれほど長くもないのに。
でも世間もひとえにスマホによる情報化とSNS
一般の声が隠せなくなったし広がりやすくなったせいで
ここ数年で一気に変わったところがある気は
体感としてあります。

上にも書いたように
文春の記事でインタビュアーのひともおっしゃっていた
テレビでの様子は
私の心にもずっとずっと残っていて
あの時から田嶋さんの印象は自分のなかで一変した
と思いますし、
何度もあれからこれまでも
折に触れて思い返していました。

自分の勉強も知識も不足している部分は多いので
理解も追いついておらず
田嶋さんにしろ上野千鶴子さんにしろ
同意や共感を高らかに申し上げようという段階には
まだないと申し上げるほかございません。

それでもフェミニズムの印象がどんどん
自分の中でも形を変えて行っていて、
それが何となく以前よりは明瞭になってきたような
気持ちもあります。
そして上記の方々のおっしゃりたかった要旨は
世間でずっと見出しやタイトルにされていた
不要なほどの偏狭さを強調するものとは
違う部分も多かったのかなと。

今年の上野さんの東大入学式でのおはなしの内容などは
自分にはとても常識的なことをおっしゃっているように思えて
ああこういうことを言いたいだけであったのか、
まるで男性の全てを敵視するかのようなことを主張しているように
それこそ印象操作されていただけだったのかと
改めて思わされたのはありました。
しかし
ネットというかニュースサイトのような場所では
その内容に対して
どうして入学式に水をさすようなことを言うのか
という記事なども多いように見えたので、
驚かされました。

自分の感想では過激でもなく当たり前のことを
これから学問をしようという若人への期待を込めて
入学式だからこそ、
語られた内容と受け取れました。
なので反論だとか引くという反応があること自体に
驚かされました。

そんなことを今年は折に触れて
思い返したり考えるともなく考える機会が
増えていた気がします。

そして上の文春の田嶋さんの記事でも
そういう人が多いのかもしれないと窺われた気持ちに
なりました。

フェミニズムが対立を煽る思想であるかのようにされてきたのは
誰かが意図してそう見えるようにしていた構図だった部分は
少なからずあったのかもしれない、とだけは
自分なりの俯瞰をして現在は思ったりもしています。

フェミニズムという言葉がまたなんというか、
片方だけのことを語っているように強く印象付けてしまうかもしれないので、
その言葉ができた当時なら仕方のないもしくは必要な名づけ方だったでしょうが
現在であればもしかしたら他の意味や言葉も包括したほうがいい部分も
あるのかもしれない気もしてきています。

もう少し書きたいことはあるけれどまとまらないので
それでまた書く時も上げる時も逸するので
とりあえずこれだけ書き留めて上げておきます。

○○ってそんなもんよ~、は誰かにだけ都合のいい言葉

相談事されることもないんですがね。
友だちも雑談をする知り合いも今はいないみたいなものなので。

それでももし何か相談をされた時は
たとえ聞いていて
何か違うなーとか思えるようなことでも
○○ってそんなもんだよー
(○○に入るのは、
人生でも世間でも男でも人間でもいいですが)
とだけは言わないようにしたいなと
今日思いました。

自分が相談員とかそういう立場の人に
言われたことを思い出しながら。

その辺のというか
ほんとにちょっとした付き合いの相手に
うっかり何か相談じゃないけど愚痴っぽいことでも
言ってしまった時に
そんなもんだよーと言われるならば、
落胆もするかもしれないけど、
それを言ってしまった自分の迂闊さを
呪いたくなるほうが強くなりそうです。

だけれども相談員というような立場の人が、
自分が切実に訴えていることに対して
愚痴程度にしか受け止めていないことを
実感させられるのは
あまりに絶望が大きかったです。
愚痴でもこぼしに来て
すっきりしたら丸く収まるくらいに
考えられていることが。

話をすること自体は
自分の内の物事を整理する上でも
発散としても、有効であることは確かでしょう。

だけどその時の自分は
そのために来ているんじゃなくて
何かに繋がる糸口でも見つけたくて
必死に訴えに来ているつもりだったのに、
相談員だとかのお名前をお持ちなのに相手のほうでは
そんな風には一切思っていなくて、
ただ愚痴でも聞いていればいい
ほんとに分かりやすく死にそうなら報告はしないと、
くらいの感覚でしかないことを
目の前で突きつけられて
自分はこんなに追い詰められていて
それを訴えに来ているのにまた
誰にも決して通じない伝わらない
というのを見せられて
それを伝える手段を持たない自分が悪いのかとか
でもこれほど必死に伝えても伝わらないのに
今度こそ誰かに少しは伝わるのではないかと
心のどこかで願わずにいられなかった
自分の愚かさを、
結局は呪わないといけなくなったことが
思い出しても苦しいし
今ではもうどうでもいいことになっているわけでもないです。
ただ、そういうことで
相手にはそれだけのことでしかなかった
という事実を理解しているだけです。

だから、
そんなもんよ~は言わないようにしたいです。
もしそういう場面があって
自分が言うべき言葉が見つからなくても
そんなもんと言って
相手のひとつひとつの事情を知り得ないことだとしても
だからこそ知りもしないのに言ってはいけない
思います。

私の場合は
相談員の人に自分の気持ちを勝手にそのくらい
大したことないようにあまりに言われたと
毎回感じながら苦しんで悔しい感情がいっぱいで
帰ってこなければいけなかったので、
それを相談員の人に言ったこともありました。
だけど、あなただって私のことは分からないのだから
そんなの仕方ないでしょうというような言い方を
されました。
そういう意図が無かったとしてもそういう言葉でした。
知り合い程度のひとを愚痴に付き合わせてしまった状況でなく、
専門性は持ったかたに
少なくとも愚痴ではない相談を訴えているつもりだったので、
まさかそんな言い方をされると想像していなくて
思い出しただけでも何を思っていいか分からないです。

全てが受け入れられるだとか
全てが解決されるだとかそんなことは
けして考えていなかったですが、
まさかそんな風に言われると思っていなかった
そのことすら自分が甘かったように思えて
なぜこんなことしたんだろうという気持ちにさせられました。

身内のはずの人はそういう話をすると
ふーんまあ俺の責任じゃないし
そんなん話したって分からない奴は分からないんだから
むだなんだからやらなきゃいいのに、
という態度でそれで
いくら訴えても自分の関係ないこととしか聞かないし、
お前の話は誰にも通じないと言ってきました。
いつでもそうでした。

だから
そんなもんだよ、は、
何も言える器のない自分への
あらゆる角度から見て投げているだけの
卑怯な言葉だと今は思うので、
せめて自分が他者に対して有用なことなど言えなくても
そんなもんとだけは言わないようにしたい
と今は思います。

・その状況に対してその人自身がどうしたいのか、
・むしろすぐにどうもしたくないけど
その状況を理解してほしいだけなのか、
そこを聞くなり考えるなりをして
・次の段階が必要ならばそれに対して
何か自分が言えることはあるのか、
という考え方が他人が出来ることなのだろうか
と、いうような風に現在は考えたりしますが
それが正しいこととは限りません。
それでももし、
愚痴のつもりか相談かもわからない雰囲気であったとしても
何かその人の持つ状況の話をされたとき
どう言っていいかわからなくても
そんなもんよーと言って自分を納得させるのは
やらないように自分に確認していきたいと
過去のことを考えて今日は思いました。

まとまりませんがそういう覚え書き。



実印はきちんとした朱肉とセットで買いましょう

タイトルは、
印鑑ケースのスタンプインクでいいか
などと思った自分への言葉でもあります。
実印にするようなハンコは
字体も凝っていて大きめの物にすることが
多いのではないかと思いますが、
そういうハンコはきちんとした朱肉でないと
全然まともに押せません。
実印の使用はそうそうあるものではないので
知らないこともありましたという体験談というか。

 

それとは別に。

男の人は裏切るしもういいです、
というようなことをおっしゃる熟年の女性は
どういう感覚なんだろうと最近まで思っていたが
少なくとも一端は理解できてきた。

人によって当然違うがそこで言う裏切りは、
必ずしも浮気などを意味しない場合もあることも。

女性しかとまで言わなくても
主にそういうことをおっしゃるのは女性で、
男性は熟年でもそういう言い方を
ほぼ聞いた覚えがないのには意味があるとも思う。

男はこうだから女はこうだから、
という言い方は元より好きでないですし、
男性脳女性脳という論もほぼ信用していないので
(身体構造が性別によって違うので
人体を構成するものとしての脳も
そういう意味での性別による差異がある可能性は否定しませんが、
日常レベルの思考においては性別による脳の差異よりは、
個人差とそこに至るまでの環境等の影響のほうが
大きいと考えた方が自然な気がしています)
男性が元々そういう生き物というより、
男の子なんだからそのくらいはねーと、
無神経で気遣いをしなくても
許される育てられ方をされがちであったり、
社会の扱いをされるからそうなるんだろうとしか思えない。

男性が全てそうとはもちろん言わないし
そういう男性に苦しめられるような思いをしてきた
男性もたくさんいるだろうことも含めて
書き残しておきます。

男性女性の枠だけでない立場であろうとする方もいて、
それがいわゆる障害と呼ばれることもある理由からのかたもいるでしょうし、
それらとはまた別の理由からというかたもきっといて、
人によって様々でしょうから
男女性差だけで物を語りたいなんてことは絶対にないです。
むしろそういう考え方にずっと違和感がありました。
ずっとです。
少女漫画で育っているからというのも大きいと自分では思っています。
(昔の少女漫画は特に今で言うジェンダーレスも
自然に多い感じだったと思います)
あとは普段の生活のなかで自分自身も女子だからこう、
という風に言われるのは違和感があって
もっと個々の人間性によって言われるべきだとは
常々感じていたと思います。

世の中が少しずつであって
また形だけの部分も多いけれど、
少なくとも
性差を強調して誰にでも当てはめるだけの価値観が
正義として絶対的に語られるというような時代では
なくなってきたとは思えるので、
やはり違和感のあることは間違っていたわけではない
と、生きて来た時間の分があるからこそ感じています。

そのうえで、
男の人はこうして育てられるから
他人に対してもこういう考え方や扱いでいいと
思っているんだろうなと感じさせられる体験も
今だからこそあるので、そういうことを書き留めておきたい
と思いました。

横暴で無神経な考え方の女性も勿論いますし、
女性だけが男性の無神経な考え方に傷つけられている
というような話をしたいわけではけしてないです。

ただここで書き留めておきたかったのは、
男性が今でも男の子だから細かいことは気にしなくていい
というように育てられる場合も多いからこそ、
大人になるまでの間に男性のほうが女性よりも
無神経で相手の気持ちを考える努力をしないでも
許されるという側面が生じやすくなっているのではないか、
相手の気持ちを考えるというよりも察することを
強く様々な場面で求められる育ち方を(勿論人によりますが)
少なくとも今の日本で女性はしていると正直思いますが、
男性のほうが女性より様々な場面で察するどころか
相手の気持ちを考える習慣もなくても許されがちな社会通念だとかが
現在でもまだまかり通っていると感じるというはなしです。

それによる結果がより顕著になってしまうのは
配偶者だとかパートナーとの間の関係になることが
どうしても多くなるので、
自分もそれを書き留めておきたいと思いました。
なぜこうなるのかということを考え続けているし
これからも考えるだろうと今は感じているので。

 

ここでのテキストは改稿することがしばしばあります。
大抵は勢いで書いていて明らかに文章がおかしいことが
それはそれはあるので。

他の、全然自分の実人生と関係ないような
映画や音楽やアイドルのことなども書きたいのですが
今回はここまでにしておきます。

 

 

シヤチハタ 朱肉 エコス MG-30EC 30号

シヤチハタ 朱肉 エコス MG-30EC 30号

 

 

 

コクヨ 捺印マット 携帯用 IP-900N

コクヨ 捺印マット 携帯用 IP-900N

 

 

 

シヤチハタ 印マット付き朱肉 シクオス ターコイズブルー
 

 

実印

実印を作らないといけなくて
調べると、
・未婚女性は名前だけで作ればいい
・既婚なら姓が変わらないだろうからフルネーム、名前のみ、姓のみの
どれでも好きなようにすればいい
というようなことが書いてあるんですけど。

 

既婚なら姓が変わらないだろうから、って
さすがに離婚したら姓がまた変わるかもしれないから
やっぱり名前だけにしておけば無難だよとは書けないよな
と思いました。

 

そんな感じで
自分にも色々ありすぎて、
親のものだった姓には戻したくないけど
配偶者も許せないのでそちらの姓も名乗りたくない場合、
相当嫌な感じだよなと思っているところです。

 

実印は名前だけにしておこうかなと思ったりしてはいます。

 

あーめんどくさいです。

 

とにかく進めないといけない手続きとかそれなりにあるし
でもそれに取り掛かるには
色々思い出さずにいられないというか
別に忘れてないですけど、
とにかく自分の人生が踏みにじられ過ぎてて
そういうのをつい辿らずにいられないと思うと
逃避したくなります。


それでアイドル動画を見始めたら止まらないので
くるってるとは思います。
完全に逃避ではあります。
ほんとにくるったように動画を見るのを止められないので
自分でもかなり疲れるんですけど。

 

あと全然全然言いたくないけど
ずっと恐れをなしていた更年期が実際やって来た気がとてもしていて、
ここらもこれまでの経緯を考えるとまた
踏みにじられた屈辱だけの日々を思わずにいられないので
たまらないですが
まあそのへんもいつか書き留めるかもしれないです。

そんな感じの覚え書き。

 

 

 

 

平成最後に

年齢でいちいち判断されるのは
あまりうれしくもないし面倒かなあと思うので
年齢はぼかしておきたいものではあるのですが、
ぼかすのも結構めんどくさくもあるので
この日に書いておきますが

 

自分は団塊ジュニア世代に属するものでした。
団塊ジュニアとはもう少し広い世代かと思えば
よく調べてみれば結構限定されている年代でした。
こんな短いあいだに生まれなければならなかったなど
大変な呪いです。

団塊ジュニア以外の世代に属するかたは
団塊ジュニアに関するWikipediaでも読んでくだされば
と思いますが
こう言ったら何ですが多分理解はしづらいとも
感じます。

 

棄民世代とも呼ぶとはなかなかな言われようですが
大変納得できる部分もあって最悪です。

昭和でも
平成でも
その世代ゆえに過ごさなければならなかった
全ての体験が呪いのようです。
子どもが多い、若者が多い、とされている世代の
扱われようの粗末さを、
そういった世代にあたらない方々も
ほんの少しだけでも
想像してくださればと思います。


戦争があって高度経済成長期があって、
その少し後くらいに育たなければならなかった
団塊ジュニア世代にあたるものとして、
自分の味わってきたすべての呪いのようにしか
思い返すことができない体験を
大人になって考えるほどに、
戦争が悪いとしか思えません。
そうでなくても戦争は絶対に「悪」である
といつでも絶対に考えていますが、
高度経済成長期の少し後に
団塊ジュニアが育った体験もやはり
歴史を不勉強なりに考えてゆくほどに
戦争が悪いとしか思えません。

なので、だからこそ、
戦争がないまま終わった平成を
素晴らしいと心から思います。

 

思想の右も左も個人的にないですし、
天皇家をゴシップ扱いして語ることを好む層と
いうのはいつでもいると感じますが
自分は何も偉くもないものの
そういう見方は趣味が悪いので
したくないとしか感じません。
また天皇制の是非もあるのだろうとは感じますが
それに対する確たる考えが自分にあるでもないです。


そんな自分でも、
声を震わせて感慨をもって
戦争がないまま御代を終えようとしていることを
感謝と共に語っていた天皇陛下の姿には、
感じるものがございました。

 

そして戦争という形を
国として一度もとらないまま終えた元号
絶対に誇ってよいものであるし
湾岸戦争や平和維持活動と共に思い返し
考えてゆかなければいけないと考えつつも、
国として戦争という形を選択しなかった
平成はとにかくことそのことに関して
絶対によいものであったと振り返ります。

昭和に戦争があり
高度経済成長期があり
そのあとに育っていかなければならなかった
団塊ジュニアだからこそ
そう思って振り返ります。


もっと整理して書かないといけないでしょうが
今はとりあえずこれを書き残します。

 

 

pakirapakira.hatenablog.jp

 

ほぼ人生初めてのペットだった文鳥を失って
ままなっていません。

命を失った文鳥が一番つらかっただろうけれど

いわゆるペットを失った際の飼い主の喪失感は
飼い始める以前からも
そして飼い始めてからも
ずっとずっと怯えていたものだったけれど。
実際まったくどうにもならない。

どうして失ったかについて書くと
「厳しいことを言うようですが」と言って
自分の優位性かなにかを示したい方が
出てきそうで少なくともまだここには書けない。

この辺境まで探し出すこともそうないでしょうし
ほぼ誰に見られるブログでもないですが、
公開している以上それも考えには入れておきたい
というところも常にあるので。
勝手に予防線を張って考えているだけにしても。

動物のことに限らずなんにせよ
自己反省の弁を述べている相手に、
自分が偉いことだけを示すかのように
持論というか大体は一般論を
正義のようにかぶせてくる人のことを見るたびに今では、
厳しいことを言うようですが屋さんかなにか、
と頭の中で呼ばせてもらっています。

このことについては考えるところも大分ありますが
ここで上手くまとめられそうにないし
話が逸れてしまうだけなので置くとしても。

放鳥中の事故に類するものと認識していますが、

小鳥を飼う方のしばしば聞く事故例として
床などに小鳥がいるのに気づかず自分(飼い主)が、
というあまりにも痛ましいケースがあり
それもけしてないようにと恐れていましたが、

こういうことがあると想像もしない形で
失うことになりました。

本当に愛らしい存在でした。
その小さなからだのなかに
命が確かにそこにあることに
新鮮な感動を更新していくようでした。

文鳥が亡くなった日に
動物病院で紹介された
動物専門の霊園もありましたし
それも含めて自分でも調べ、
幾つかに電話をして検討して
決めたところに
なきがらを連れてゆきました。

そのはなしはまた書けるときに書くかもしれません。
少しずつ整理するために書き留めています。
文鳥のことに限らず文章で書くことで
整理してゆきたいためのブログですが
こんなことは書かないで済ませたかったです。
いつか失うことがほぼ定められた存在としても
もっと長く生かしてあげられなかったことを
悔やみきれませんし
そうでなければいけないので忘れず考えて
その考えを整理するために
またここにも文章にもしていくかもしれません。

まだ何も整理できず
日々その不在を思い知らされています。

文鳥はとても素晴らしい動物で

飼い始めて一年一か月を越えたあたりの
文鳥を亡くしました。
昨日2019年2月4日のことです。

桜文鳥でした。
胸のあたりは
桜文鳥の桜の名の由来を思わせる
薄いもやのかかったような
白とグレーとセピアが混ざって
模様を作っているような柄になっていました。
頬にも白の中によく見ると少し
薄くセピアの小さな点のような部分が
いくつか混じっていて、
尾羽は墨を流したようなというほかない
深みのある色の黒でした。

子どものころ
ペットを飼えるような育ちをしていない自分にとっては
生まれて初めてのペットと呼べるような存在でした。

どの子にも
うちに来るよりいい生涯があるだろうから
自分が命を預かったりしてよいのかと
何年も何年も考えて、
それでもどうしても文鳥と過ごしてみたくて
決心してペットショップに何度か下見に行ったりして
連れてきた文鳥でした。

連れてきたときは毛は生えていましたが
まだ雛で自分だけで餌を食べることはできず
最初の二週間ほどは
雛用の餌を作り専用の器具を使って
私の手で与えていました。

飼い始めてからは
やはり来てもらってよかったと日々思うことばかりで、
毎日毎日愛らしい様子や、
生えかわって桜文鳥の色が出てきてからは
天然の羽や毛並みの美しさにも、
いつもいつも新たな感嘆のようなものを覚えて

この子がいなくなったらどうしようと
ほぼ常に思っていましたが
それでも文鳥の平均寿命を考えて
それはまだ先のことだと思っていたのに

それがずっとずっとずっと早く来てしまい。


家にいる時にもう動かなくなっていて、
昼休みに入ったころの時間外でしたが
調べて電話で複数問い合わせたら
連れてくるよう言ってくれた近所の獣医さんに、
他に手段もないので徒歩で
文鳥を包みケースに入れてカイロをあてて
連れて行きました。

でもただ確認のためだけに行くことにしか
ならないだろうとは思わざるを得ない状態だったので、
ケースの入った袋を両手でかかえて、
文鳥への謝罪の言葉を繰り返しながら、
日頃からの体力と鍛錬のなさゆえに鈍重な足を
それでもなんとか自分なりには早く動かして、
転がるようにとでもいった様で向かいました。

電話を受けて待っていてくださったお医者さんは
初診だったので問診票を書くよう言われ
書きながら文鳥をまず先に診てくださらないかな
でももう確認だけだとお医者さんには分かっている
状態だからなのだろうなと絶望を頭の中で何度も確認して
問診票を書き終えお渡しして、
お医者さんがじゃあ診てみましょうかと
聴診器を当てて
心臓が止まっていて死後硬直も始まっていますね
と教えてくださいました。

見ている時に動かなくなって
それから慌てて行動しているはずなので
まだそれから一時間ほども経っていないかと思うのに
そんなにも早く死後硬直が始まってしまうのかと、
それもこんなに小さな体ゆえなのだろうかと、
思われてまたやるせなくもなりました。

もっともっと長く生かしてやれなかったことが
文鳥に対してとても申し訳ないですし、
小動物という生き物の弱さというかを
もっともっと深く熟知までしてあげていればと
思わずにはいられないです。
そしてあの愛らしいことこの上ない生き物が
もうこの世にいない生きていない事実を
とても信じられないです。

帰宅したり部屋の扉を開けるたびに
聞こえるあの鳴き声を、
いつも扉を開けようとするたびに
一瞬身構え待ちかまえる癖がついていたので、
なきがらを連れて帰った時も扉を開ける瞬間
反射的にその気持ちになってしまって、
それですぐに
それはもうないのだということを
思い出し思い知らされました。
これはしばらく続くことに決まっています。

扉を開けて
カラのケージを見て
号泣せずにいられるわけがありませんでした。

 

文鳥はまた飼いたいです。
文鳥はとても素晴らしい、
本当にとてもとても素晴らしく愛らしい
生き物でした。

飼い始める前からも
飼い始めてからも
きっとこの文鳥さんを失ったら
また別の文鳥を求めるようにならずにいられないだろうと
覚悟のように思っていました。
同時に失う日を想像してはただ恐怖してもいました。

たとえどのような経緯であろうと亡くしてしまえば
その命を失わせてしまったことを
保護する立場として後悔もするだろうし、
こうしてやればああしてやればと
思わずにいられないだろうし、
とにかくそんな日が来るのが恐怖でした。

想像よりずっと早く来てしまったその日に
なきがらの供養の場所や方法の選択を
調べながらまだ何も信じられていない自分を感じます。
これからずっと重ねて
その不在を思い知るであろうことも
容易に想像がつきます。

いまは文鳥や小さな動物を亡くした方々が
その後の日々をどのように過ごされたかなどを
ネットで検索せずにいられないので、
この文章もいつかどなたかのわずかなりともの
安寧の一助にでもなればとも思います。

普段のこのブログ内での文章は
取っ散らかり以外の何物でもなく、
今は自分の生い立ちの整理をするために
書いているような部分もあったりと、
何にせよとうてい愛らしいペットブログなどではないですが

こういう者もいて
小動物を飼って失ったという
ネットに散らばる文章として置いておかせて
もらいたいです。

気持ちだけの話なんだな

最初に念のため書いておきますが
当然ながら以下の文章は、

まともな身内を亡くされて
喪中であるといったかたに対して
どうこうという話をしたいわけではないです。


前の記事に書いたようなことで

自分のただ一人の親として
そいつを頼りにするしか
生まれる前から他に何も誰もおらず
育たなければならなかったけれど、
よりによってそんな立場の者が卑劣な屑で
どこにも逃げ場がない子どもに対して
そいつが周囲も巻き込んでしてきた所業は
こちらも大人になってから振り返ると、
口にするのも総毛立つような嫌悪しかない、
そういう者が死んだらしいので

親であることを
戸籍などでなかったことにしてはくれないので
世間はそれを親として扱う以上、
喪中にする場合はするんでしょうが
当然する気がない。

弁護士が送ってきやがった
(この言い方に問題がないわけでないでしょうが
こちらの人生を生まれる前からずっと踏みにじってきた者に
仕事と割り切って加担できるお仕事のかたに
私が好印象を抱かなければならない理由もないですし、
勝手にあばかれた住所に弁護士が郵便物を何度も送付してきて
そのたびに受取拒否しているのでこの言い方になるのも
個人としては当然のことでもあります)
電報を、これはそういう場合はどんな電報になるか知りたくて
単に興味だけで何日も遅れてから受け取ったけど、

誰が喪主になったのかもわからない
葬式もしたようだが、
それらを思い浮かべると
細かいことを想像したり考えたりしそうになる。
しかし誰も真実を知ろうともしていないのだから、
私がそれらの風景を考えたところで自分の生涯に有害すぎる。

それにしても弁護士のすごいところは、
隠している住所を
勝手にあばかれた人間の感情など
もちろんかえりみず
「仕事」として郵便物を何度も送ってくるところで、
すごい仕事だと思う。
もちろん必要な職業だが。

とにかく喪中とかって
気持ちの問題なんだなと再認識したはなし。