けいぞくしたい

継続したい。

虐待親が死んだという話をメモ

 


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 急にこんなことを書くのもなんなのですけども
 自分は
 血縁上の肉親が他にどこにいるかは知ったことではないですが
 実質上は肉親が一人しかいない母子家庭で育って

 そのたった一人の肉親である生物が
 今で言う毒親とかそういう言葉で表してしまうには
(その言葉の元になった『毒になる親』は
 読み切ることができないほどに名著ですが)
 今の「毒親」という言葉の使われ方を見るにつけ
 とてもそれを使う気にならないのですが

 そういうような親であったというかで、

 そいつと二人きりの家庭で
 そいつだけを頼りに生まれて育たなければならなかったので

 自分の現在の認識としてそいつは、
 誰も気づかず
 おおよそ私が申告でもしない限り法にも触れず
 私以外は誰も困らない
 しかも病気等で本当に困難にある方々とは
 全く別の状態で、
 当然自覚もないので本人は全く困らないまま
 誰も裁けず野放しになっている異常者、
 です。
 でした。

 忌々しいことに戸籍上やあらゆる手続き上で
 そいつが親でないことにする方法がないので
(どこかに養子縁組をする等の方法が
 いまの自分には現実的でないので)
 何かそういう屑以下の存在としか認識していないが
 何も知らない他人はそれを私の母親というところの、
 その生物が死んだという知らせがあったらしいという話を
 今日聞かされたのでそれをきっかけにここに
 書き留めています。

 らしい、なのは私は便りも受け取らないようにしているからで、
 他の人からそれを知らされて詳細を確認はしていませんし
 そもそも詳細を知りたくもないし
 こうむらなければならないようないわれのない
 面倒も要らないですし、
 一切関わらないのを今後も続けたいというだけのことです。


 とりあえず人生でありえないほどとんでもない時に
 踏みにじられるべきでないものを踏みにじられ
 台無しにされたなんてものではないことを経て、
 さらに改心を求めても
(改心に限らず何かを求めることが意味のない相手であるので)
 到底得られるものでないと悟るほかなかった、
 そういう経緯の果てに
 そいつを自分の人生から無関係にしていくしかないとなって、

 それでも、
 縁を切る、ということは
 本当は手続きでも公的文書でもそれを明らかにしてほしいのに
 世の中の大部分はそれを必要としないゆえに無関心なので
 そんな制度は出来ようはずもなく、
 縁を切ると言っても
 自分が離れて生活も気持ちも無関係で暮らすようにする、
 しかできないことが大変納得がいきませんが、
 現状それしかできないならそれでやるしかないまま
 過ごしていました。

 しかしそうして住所を告げずに引っ越しても、
 こちらはとうに成人も過ぎている独立した存在であるはずなのに

 一度は卑怯としか言いようのない手段で
 他人をだまし住所を聞き出し、
 押しかけてきてその時にこちらが留守だったからといって
 隣の住居の人に私の様子を聞こうとしているところに
 ちょうど私が戻り追い返したけれど、
 いかに自らが正当な理由から正当なことをして
(住所を卑劣なやり方で突き止め押しかけ
 隣の家の人にまで恥をふりまいた挙句に)
 いるかを主張され、

 住所を突き止められている不快を抱えながらも
 引っ越しなどそう簡単にできるものでもないので
 しばらくはそこに住んだけれど、
 そののちにきっかけがあって全く別のところに引っ越し、

 それでも
 一年もしないうちに新しい住所も
 何らかの手段で突き止めたのでしょう、
 思い出しても吐き気がしますが急に書面が送付されました。
 そいつからの文書はとにかく郵便であれば
 開封など一切せず受取拒否で送り返す、
 以外の選択をしないので、
 内容は知る由もないです。
 しかしポストにその封筒が入っていたことだけでも
 思い出すだけでも吐き気がしますし
 塩でも消毒液でも撒きたいことでしかないです。


 急に差し込むような話ですが
 私は昭和のまあどちらかと言えば(すごくどちらかと言えば)
 終わりのほうの生まれなんですが

 自分が生まれてある程度の年齢までを
 過ごすしかなかったその時代に対して、
 愛憎でいえば憎のほうにだいぶ偏るけど
 とりあえずあんまり良くないところ、
 こどもに対する世間の扱いであるとか、
 自分ではどうしようもないことなどを
 平気で差別する今現在ではありえないような
 価値観がまかり通っていた無神経さなど、
 そういった部分を持っていたその時代を
 経年したからといって過去になったからといって
 絶対美化などさせやしない、という気持ちは
 強く持っています。

 もう平成で過ごした時間のほうがずっとずっと
 遥かに長くなったけれど、
 生まれてからいわゆるところの物心つくまでの
 時間を過ごさなければならなかった時代の記憶は
 それなりにどうしても強いものだと
 昭和を思い返すと思い知らされるようです。

 昭和どころか平成も終わろうという頃
 そいつが死んだことに特に意味を見出す気にもなりませんが。
 一切の記念的な考え方を適用する気にならない相手なので。

 死んだと聞かされても、
 塩を撒きたい気持ちにしかならない書面を
 住所を勝手に探られ送付された時から、
 ご自慢だった筆跡のきれいさとやらが
 感じられないぐにゃぐにゃした文字で
 封筒を書いてきたのを見たときから、
 そいつはそういうことで他人の同情を引きたがって
 ただ一人の自分のこどもを陥れて
 自分を正当化してきたのでまた、
 こんな字しか書けなくなるほど弱った自分
 アピールもあったんでしょうが、
 まあご自慢の筆跡も乱れるほど具合悪いんなら
 死ぬんじゃないのとも思っていたので、
 順当にそうなった確認であって、

 せいぜい天涯孤独で惨めに
 なるべく長く惨めさと苦痛を味わえばいいと
 思っていたものをそうならないものだね、
 といったところです。

 葬式等するのかすら知りませんが
 家族もないのに誰かが葬式をしようとしてくれるというなら、
 天涯孤独で惨めさを味わって死んでくれなかった証明だとすれば
 不愉快だなあというか。

 でも平均寿命まで全く到達もしなかったようなので
 そのあたりに天の采配などは見出してもいいのかもしれませんが、
 とりあえず気持ち悪いので考えるだけ不快だし面倒です。

 そんなことを考えるくらいなら
 昨年から飼い始めた初めてのペットというかの
 桜文鳥の環境を充実させることを考えたい
 という気持ちです。

 書き留めておきたいことは他にもあるけれど
 日を追ってまた何か書いていきたいです。

 この区切りには、
 今までせめて文章に残しておきたいと思いながらも
 色々と躊躇してしまうことが多かった部分が、
 どーうでもよくなるきっかけくらいに
 なるならまあそれはそれで、と今は思いますが

 それが全てではないだろうし
 また他の日には自分がどう思うかも分からないので
 何かまた変化があるなりで書き留める機会を
 持ちたいと考えているところまでで今は。

 もう少し要点を絞った文章を書く練習もしつつ
 数を重ねられたらいいという願いと共に。

どこに需要があるのかを考える

正直言ってこのことに限らず、
好感を持ってでない事物や現象、
特にそれが特定の人物の行動によるものである場合、
宣伝して差し上げるようで気持ちもよくないので
本当なら名前を出すのも控えられたらいい、
という姿勢ではあるのですが

その時に感じたことや物事を
分かりやすく書き留めておきたい
気持ちもあるので
走り書きですがそのまま記載しておきます。


というくどい前ふりを置いたうえでですが
自分は、アグネス・チャン
初々しいアイドル歌手であった時代を知らないので
いまいちよく分かっていないところがあるんでしょうが、

ここのところ個人的な生活上で色々あって
どうにもこうにも余裕のかけらもない日々であったため
テレビもろくに見ていないみたいな状態が続いていて
久々にテレビをぼんやりとつけてみたところ、

平生より
自分自身の体験から見てしまうと
かなり無理と感じざるを得ない無神経な価値観の提示が多いので
意識して見ないようにもしているたぐいの
朝のテレビ番組が放映していて一瞬見たら

アグネス・チャン
自分の育児がいかに立派であったかを語っているらしき
場面に遭遇して

この人は
文句を言われるだけの理由があるんだろうな
と改めて自分でも感じたというはなし。

到底愉快とは思えなかったので
すぐにチャンネルは変えましたが
それでもこの人が今はその活動上頻繁ではないにせよ
テレビに出ているということは
需要はある証左なのだろうから
その需要はどこに生じているのだろう、
などと
チャンネルを変えた後も考えるともなく考えていました。

とりあえず語弊があるでしょうし
バックボーンや国籍に関わらず
この人自身だけの問題だとも思っていることを
強く念を押しておきますが

おそらくではありますが、
長い日本での活動歴にも関わらず
いまだなぜか(それ自身が問題だというのでなく)片言の日本語で、
外国にバックボーンがある人が語るから
まだ許される部分は大いにあるのでしょう。

また他人の成功した話を聞いて
自分の生活と比較したいという需要が
どこかは分からないけれど
どこかの層にあるのだろうと

そんなことを考えるともなく考えていた
といういつもの走り書きメモを
残しておきます。

どうせ書くならば適切な文章を書きたいという気持ちはあるので

読みやすい記事の書き方を考えたり

あれだよなー
本題から書いたほうがいいなー
雑誌の記事のような文章もそうだが
ブログの記事も。
と思いました。

(雑誌の文章など書いたことはないため
あくまでも素人として見た印象です)

私は自分のここでも書いたような記事を
そこそこ読み返すのですが
それは自分用記録だからなんですけど。

なので文章としては
誰が読むという当てもない
web上を漂うだけのものとしても、
それでも伝わるような文章にはしたい
というくらいの気持ちはあり、
そこで読み返して思ったのが

伝わり方としてある程度のスピーディーさが
情報として求められるwebなどは
本題から書いたほうがいいなということを
改めて思ったので書き留めておく。

このブログも見やすくはしたいので

カテゴリがひどいので整理したい
と思いつつも出来ていないまま
来年のカレンダーが店頭でも売り出される季節に。

幾つもジャンルごとにブログを持っていた
(映画とか音楽とか漫画とかゲームとか
それぞれで分けたほうがいいかと思ったのだけれど
所詮それぞれが全て続かなくなるオチ)時の記事を
こちらにも記録として移植したら
結果としてそうなっているのを
いつまでも修正出来ないでいることも
書き留めておく。
あー。

覚え書き

色々あって
十数年以上にも及ぶものも絡まっていて
取り返しのつかないことばかりで
正直物凄く怒っているのだが、
誰も償いなどするはずもないし、
だからといって自分も憤死などしたくないし
壊れたくもないので

なぜ自分が怒っているのか
根源的なあたりを
今回に限らず普段から考えるようにはしている。
こうやって文を打っているのもその一環ではある。

考えるに

自分は普段もここ最近も充分困窮を語っていたし
以前にも同様なことはあったのだから
何も伝わっていないことはないだろう、

改めてまた他人に何か強要したくないし
なるべくというか最大限邪魔しないでほしい
ということを改めて言いづらかったし、

こちらを放っておいてくれるだけでよいし
時間の貴重さも大人なら
(なぜ大人なら、という書き方にするかというと
普段子どもの、道理や生活上最低限の危険回避行動すら
説いても説いても説いても理解しないという
日常があっての今回の話だからなので)
理解するだろうし

だからこちらには構わないでほしいし
しかも24時間×数日単位という
十数年以上に渡って持ち得なかったような
貴重なまとまった時間、

しかも普段から困窮して追い詰められていることも
充分に語っていたのだから、

その貴重なまとまった時間が
いざ来たのだから
自由にさせてほしいというか

相手に何をしてくれというのでなく

ただこちらには構わないで
何かこちらに働きかけたりせず
せめてこの期間だけは
その貴重な時間と
こちらの時間の猶予のなさも考慮して
尊重するというか、
緊急性がなく長い時間に渡る雑談のたぐいや
多くの反応を求めないで
一人で過ごさせてほしいということで

しかもそれを強くこちらから言うのも
とてもはばかられたので
具体的に細かくは言えなかったが
(俯瞰で他人事として考えたり
しかも後から見たりした場合なら、
ここがまず誤りだが、
いざ実際自分のこととしてその場に立って
しかも性格と生い立ちと経緯と立場とで違うにしても
言える人間がそう多いとは思わない)

普段からの困窮と時間の無さを
日々切実に訴えていたことと
これまでの何度かの体験も踏まえて、
この自由な時間だけは
こちらには構わないで
雑談などに応じられない
そんな状況でないことは理解したうえで
(普段からどう言っても危険を回避してほしいがための道理をいくら説いて
理由もなぜかどうしてそうなのかまで説明しても通じない子どもとは違う、
道理の通じる)対応をしてくれると
思っていたのが間違いなのだ。

それでも自分からも
構わないでほしい
放っておいてほしい
作業に集中したいというのは言ったが、

それが
その数日の間だけでよいので
全く働きかけをしないでほしい、
こちらの余裕が全くないのに
そばで雑談などはしないでほしい、
というくらいであるのは全く伝わっていなかった。

その期間をどれだか貴重に待ち望んでいたか
どれほど困窮して本気で追い詰められていたかは
何ひとつと言っていいほど
伝わっていなかった。

何度も切実に話したのに
伝わっていなかった。

じゃあどういう風に言えば伝わるかといえば
何が最適な手順かは知らないが

色々何も出来ない状態だし
とても追い詰められているが、
少なくとも日常の状態を悪くしようともしたくないから
色んな生活上の作業をこなしたりして、
そのまとまった時間を待望したりしていても、
何も伝わらない。

生活上の家事などを全てやらないくらいまでというか、
心も時間も追い詰められている
状態が態度に出るところまで
具体的には怒って泣いて言うところまで行かないと
困っていたことすら伝わらない。

もちろん自分も相手の性質にもよるし
それまでの経緯とかは全く無視できないし
一概にこの方法がいいなんてことはない。

理屈を冷静に言える状態と
それぞれの性格と関係性とが
全て整えることがそれまでに構築できていて、
言葉で説明して理解してもらえるならば
それが最もいいだろうし
それは目指されなければならないだろうが、

果たしてどれだけの人間が
そんなこと出来るものなのだろうか、
どれだけ言っても普通と言っていいほど
大抵の人は相手の気持ちなど慮らないし、
相手の困窮などいくら話されても愚痴としか思われず、
動いて生活していれば
さして困っていないものと認識されるのだから
としか思えない。


とりあえず今回で言えば
どれだけの気持ちで焦りながらも
そのまとまった期間を待望しながら
日常の作業をこなしていたかは
ほんの少しも理解されていなかった。

困っている追い詰められている
そしていかに本気であるかを語ったところで
日常の愚痴にしか聞こえていない。
という場合は往々にしてある。

なんでこれだけ怒っているかは
これが勿論初めてではないし
こういうこと(聞いてはいても理解していない)によって
今迄取り返しのつかないことが
あまりにもたくさんあったからだし
その取り返しのつかないことによって
こちらがどれだけの思いを今も抱えているか
の部分は少なくともある程度は踏まえているはずなのに
こうなるというのがあるからなんだけれども。

いくら書いても
他者から見た文章としては
被害者意識だけが強いものになるだろう。

よくある話よね、とか、

これ以上ないくらい具体的に箇条書きにして
何度も説明してやっと伝わるか伝わらないかくらいだろうに、
はっきり要望も述べられないまま
してくれないしてくれない
だけ言っててなんなの、と思われるであろう
情報量と内容の文章にしかなっていないのだろう。

だからこれは他者に伝えるだけの書き方にできない
整理するための覚え書きだが。

それでも事実の詳細は書けない書かないというかなので
整理できているかは分からないが。
それでも憤死や壊れたりもしたくなかったので。



海外ドラマなど

じぶんのじっさいのじんせいがどうにもならなくて
過去のことをずっと考えていたのですが
当然どうにもならないので
ならないからこそ
この十数年一度も忘れたことのない
事柄の数々を掘り返して思い返して
更にどうにもならない気持ちになるの繰り返しで、
ずっとそうで
生きる以外の選択はとりあえずなしであるとの
結論から常に考えていても、
さすがに生きる「よすが」
みたいなものがない状態なのは厳しくて、
そもそも生い立ちがかなりわるいであろう部類なので
生まれる前からそうした
「よすが」のようなものが全くないうえに、
今もどうにも心にもそれが見つからない
みたいな感じで、
十数年間自分は片時も忘れていなくて
取り返しもつかないのに全く償われていない
誰にも省みられてもいない事柄を思って
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるしていて
それでも生きる以外の選択は考えていない以上
さすがにこの瞬間だけでも
他のことを考えられるようにしないと
呼吸もままならないと思って

それで逃避で海外ドラマかなと思って
オンデマンド配信サービスに加入しているので
それで海外ドラマを見たりして

とりあえずぐるぐるぐるぐるぐる考えているのは
一時的に過ぎないとしても
当面の呼吸は何とかひとときにしても
できるかもとこの瞬間思えたので

物語の力は大きいな
自分に関係ない世界に逃避するのは
必要なことだなと
関係なければないほどいいなと再確認していた
明け方のはなしを書き留めておきます。

ついでに海外ドラマのメモ。


Netflixに加入しているので

Netflixオリジナルという
「ミルドレッドの魔女学校」https://www.netflix.com/jp/Title/80130521
「シャドウハンタードラマ版」https://www.netflix.com/jp/title/80084447
を見たりしていました。

どちらも面白いのだけれど
シャドウハンターは
トーリーはそれほど好きでない予感がする。ような。
でも続きが気になって見てしまいそうな。

しかしこれを言うと
実際自分の首も大変絞めるような話なのですが
ファンタジー設定な物語における、驚きの
「人でないもしくは
人を越える能力を持つ生物と、人間との、
あいだに生まれた主人公」の率。

その設定自体はスタンダードとしても
そこでとてもチートな能力の、突然の発動、
といった筋立てや展開がとても苦手です。

能力はあるとしても
最初は上手くいかないけど
それを研鑽するとか
かなり紆余曲折や試行錯誤の過程が
盛り込まれていれば納得できるのですが、
いきなりそれまでの日常とは全く違う世界に
「ひょんなことから」入ることになった主人公が
自分でも知らなかったし
研鑽などしたことのない無敵な能力を、
何の努力もなく都合よく発動する
といった展開が
本当に感覚的に受け入れられません。

子どもというか
自分で物語や漫画などを読めるように
識字し始めた頃から
(字が読めるようになってすぐの頃から
漫画が大好きで仕方なくて
絵本と変わらない感覚で読んでいました)
どうしてもそうした都合のよさが受け入れがたい
と感じていたことを記憶しているので、
とにかく自分には受け入れられない
物語の描かれ方なのでしょう。

具体的にどの作品のことも指していません。
キャラクター、特に主人公に
やたらと都合のいい展開をフィクションで
物語上の説得力も必然性もない、と
感じさせられるような形で見せられるのが
個人的にとても苦手だという、
一般的というか
どれにでも当てはまるはなしとしていうか。

「ミルドレッドの魔女学校」は
そうでないところから始まっていそうなところも
設定としては個人的には受け入れやすそうなのかな、
そうだといいなという段階です。
見始めたばかりなので先の展開は分からないですが。

 

Fire TV Stick も買ったので

Fire TV Stick (New モデル)

Netflixに加入しているなら少しでも活用しないとと
少しでも視聴が面倒でなくできるように
Fire TV Stickも導入してみて


とにかく逃避は必要なので
活用できるものを活用したい感じで
試していて

それでFire TV Stickには宣伝みたいなものも入るぽいのですが
それが、園子温監督の名前と映画だったりするので
大変閉口していたという話も書き留めておきます。

過去を思い出して呼吸もどうにもならん
と感じて逃避しようとしているときに
よりによって
感覚的に忌避感を常に感じている人の名前など
全くもって見たくないものだなと思いました。

名前を出すのも
更に宣伝してさしあげること
でしかないので正直なところ
大変不快なのですが。

名前すら忘れて過ごすのが、
強い忌避感を感じる存在に対する
自分が出来る自分に対して最も有益な
行動であるはずなので。

なんでまた
そんなに忌避感があるのかというはなしは
いつかまとめられたらいいけれど
あまり出来る気がしていないです。
とりあえずその人の肩書が
「詩人」のときに知ってその当時から無理でした。

思いつく点としては
詩のことは自分にはさっぱり分かっていないですが
詩なら詩、
映画なら映画、
と、作品として昇華されたものに触れたいと思って
それを読むなり観るなりするのに、

言葉の力でも映画でもなくて、
詩や映画といった
枠や形なんてものに収まりきらない、
「俺」を見ろ「俺」が凄いと言えと、
作品より「自分」をゴリ押しされてくるのが
この人に限らず
何でも関わりたくないと感じてしまうので、
そこらでまず無理だろうという
匂いを嗅ぎ取ってしまうというか。
そんなところなのかなとは思います。

この人の映画は一本も
最初から最後までは観ていないです。
「詩人」のときから
その存在に忌避を覚えていたにしても、
映画監督として
それなりに名前が出るようになったのだし
映画を観ないで文句は言えないと思い
観ようとするのですが、
数分で耐え難くなるので
とにかくその映画で
提示されているものを
観ること自体が無理なのだと思います。
それは扱っている題材が、ではないことも確かで
この人の視点や描き方が
自分には無理なんだろうとしか
思っていません。

そんなとりとめもない
散らかり気味の覚え書き。

また覚え書き記事だけれども

wpb.shueisha.co.jp

自分自身に
原発といったような確固たる思想があって発言したいという
強い気持ちや姿勢があるとは到底言い切れませんが

震災時の事故が無かったことになるのはどう考えても違うし、
原子力が未来のエネルギーとするのももう無理だろうし、

原子力はその利用の反対賛成如何にかかわらず
どのように見積もろうと人間に制御できるものではないし
その安全な利用などあり得ないとしか考えていないので、
この六年のあいだエネルギー問題を見直す機運がないことに焦りは感じていて

外国のかたからでないとこういった明確な発言は出にくいのだろうか
とは思いました。
という覚え書きを。

本当に今更なのですが

フィービー・スノウと
ダン・フォーゲルバーグ
ポール・デイヴィスが
亡くなっていたことを今更知って驚いています。

それぞれのかたに特に関連はなく自分が先ほどたまたま続けて知って
驚いているというだけです。


ラジオで洋楽を知ることが多かったので
さして誇れる程もないものではありますが
自分の洋楽知識の八割方くらいは
ラジオそれもFMであったと思います。

フィービー・スノウも
ダン・フォーゲルバーグ
ポール・デイヴィスも
リアルタイムではなかったのと不勉強ゆえに
有名な曲ばかりを知っていた程度の知識ですが
どのかたもその不世出の歌声と美しい楽曲は
印象に残り続けていたシンガーでした。

いずれのかたも亡くなるにはまだまだお若い年齢であったようなので
大変惜しまれます。

その耳に残って消えないような楽曲と歌声が
今後も世界中の人の耳に残り続けることを確信もしつつ
願いたいと思います。

乏しい知識ではあっても
それぞれの曲に関する印象をもう少し書き留めたいのですが
余裕が作れないのでとにかくとりあえず上げてしまっています。

それぞれがとても素晴らしい楽曲と歌声を残してくださった方々なので
このように関連もなくまとめてしまうことや
こうした形の記事ばかりになってしまうのは
自分としても大変忸怩たる思いですが
出来る範囲で音楽に関する思いついたことを
書き留めてゆきたいと始めた場所なので
どうにもこうにもですが出来る範囲でやってゆくしかなさそうです。





拍手ありがとうございます。
脈絡もない取り上げ方ばかりですが
少しずつでも続けていきたいと思っています。